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BIOGRAPHY

【Profile】
静岡県東部を中心に活動しているバンド"Billy the Cat"リーダー。
バンドでは作詞作曲を担当し、ボーカル&ピアノの弾き語りのスタイルです。
これまでもソロ活動を行っていましたが、2019年11月よりプロとしてのソロ活動にシフトしました。
バンドは継続していきますが、ピックアップメンバーで行い、名前はBilly the Catのままで展開していきます。大人数編成、トリオやカルテットといったスタイル、完全なソロ、と様々なチャレンジを行っていきたいと思っています。
また、2019年10月を皮切りに始まった沼津仲見世商店街を起点に沼津を元気にするインターネット放送「ぬまスタTV」パーソナリティとしても活動を開始。
誰かの心に寄り添い勇気と元気と喜びを分かち合う音楽を届けることこそが自分のミッションであるとの自覚がようやく芽生えてまいりました。




1963/12/05 静岡県富士市に誕生。
血液型はB型RH+ 星座は射手座です。へび使い座ともいうらしいですね。
動物占いではお人よしの狼、らしいです(笑)
身長は170cm、体重が65キロくらいかな、だいぶ減りました。一時は80キロを超えていましたので、減量しすぎで病気が進行したのかもw
趣味は、もちろん創作活動、専門書からラノベまでの読書、当たり前というくらいの音楽鑑賞、最近は少なくなりましたが絵画で会館巡りもしていました。
あとは趣味っていうより、身体を壊すまでずっと続けていた武道です。空手、少林寺拳法、合気道、剣道、ボクシング、です。有段者でして、合計すると何段になるんだろう?

では、自分語り。略歴を置いていきますね。
これらが自分の音楽を形作ったルーツとやらなんでしょうね。


【幼年期】
3歳の頃より、非常にスパルタ的なピアノ教育を受ける。
しかし!!
「才能が無い」(ピアノ教師談)、「根気が無い」(両親談)等のナイ×2判定により、色付きバイエル卒業に伴いフェードアウト&ドロップアウト。小学校高学年までかけてそのザマでした。
以後、お稽古事とは無縁の、のびのびとした少年時代を過ごしていました。
野山、海川が近かったので、自然児として遊びまわっておりました。
友達は人間より動物や昆虫の方が多かったです。
そのため自由はあったが学力はゼロでしたね。

【富士市立広見小学校時代】
アメリカかぶれでハワイアン好きの父親に無理矢理聴かされていたハワイアンやレイ・チャールズのブルーズ、エルビス・プレスリーなどのロックンロール、アンディ・ウイリアムスなどの今でいうアメリカのムード音楽や、ジャズ、クラシック音楽等であった。しかし、その頃はそういった音楽は雑音にしか感じられず、何故かマーチや行進曲のアルバムを聴いたり、大好きなブルース・リーの映画サントラを愛聴していた。

【富士市立岳陽中学校時代】
通っていた中学校は合唱コンクール等で常に優秀な成績を収めていた学校であり、校内の合唱大会も盛んだった。ある日クラスの練習中に、スポットで指導に来ていた、県下ではその実力と手腕でその名を知られ、とても尊敬されていた合唱部顧問の恩師唐島教諭に「キミ、いい耳しているねえ!絶対音感だね」と云われ、また私の姉が合唱部であった事も手伝ってか、実力以上の高い評価を頂いた。それにより合唱部を兼部(私は筋肉ノウミソ派だったので陸上部に在籍していた)することとなり、図らずも歌の修行をするようになった。思えばこの時の一件も人生の歯車を狂わせた事件のような気もするなあ。

中学2年生の時のクラスで「お楽しみ会」という、いわゆるイッパツ芸会のようなものがあり、そこで、当時人気絶頂であった原田真二さんの弾き語りモノマネをやったところ女子生徒にバカ受けしたため、「これはイケる!」と勘違いしたのが今に至る間違いのモト。 そこで、本格的に学ぼうと、学生の分際でピアノ教師をやっていた姉にピアノの手ほどきを受けるが3日で飽きる。ギターの方がカッコ良さげだという事だけでギターもかじるが、「農耕民族の手」と揶揄される無骨な手が和製スティーヴ・ヴァイへの道程を阻んだ。
そこで逡巡するも、何気なく見た譜面の上の方に書いてあったコードというものを覚えればどんな曲でも弾きこなせるという事を文献(月刊歌謡曲)により発見した。これを自分勝手に解釈し、音楽教室等にはいっさい通わず、全て独学独習で通す。そして、まあ、別にピアニストになりたいわけじゃないしなと適当にピアノを弾いて遊んでいるとそのうちメロディが湧いてくることに気づき、作詞作曲をするようになる。

…これは蛇足であり、ぼくの恥ずかしい思い出のひとつなのだが、中学3年生の時、当時、日曜日の昼過ぎファミリー歌番組としてNHKのど自慢の次くらいに有名だったであろう、「家族対抗歌合戦」という番組があった。せとてんや・わんやさんが司会をやっており、日本歌謡曲界の重鎮となっておられる作曲家・作詞家の先生方が審査員でいらっしゃった。、今考えると結構すごいメンツだったなあと思うのだが、その、静岡県大会というのがあって、姉貴と母親が勝手に申し込んでしまっており、静岡での予選会に出なければならなくなった。予餞会には大げさでなく数百組が参加しており、ちゃんと予選を一組一組やっていったのだが、勝ち上がってしまい、TVに出演することとなった。番組では、動物名を冠した家族チームでのコーラス、それぞれのソロの歌の対抗戦で優勝を決めるというものだったが、キツネさんチーム(爆)はここでも勝ち上がり、優勝してしまった。商品は当時は高価だったビデオのマスタックスとかいう製品で、これはぼくんちの近所のヨネヤマ電気のお兄さんが家に取り付けてくれた。だから、当時レアな音楽番組なんかも結構録画した。でもテープが買えずにかさね録りしちゃったんだよな。まだ残っていたら、とんでもないお宝映像になっていただろうと思われるくらいのものがいっぱいあったもん。話がそれたけど、このエピソードもショーやTVの裏側をほんのすこし覗くことが出来、そしてステージのドキドキ感がたまらなくなったひとつのきっかけかもしれないなあと、今では懐かしく思い出す。

【県立富士東高校時代】
当時は信じられないことだが、学園祭でのエレキギターは禁止されていた。風紀の問題とのことだが、それにより、何人のエドワード・ヴァンヘイレンへの潜在的才能が摘み取られたことやら…。ともあれ、そんななかでもピアノ弾き語りなんかでひとりでステージに立ったりなんかもした。

【家出~放浪時代】
思い返すもきらめきの日々。
ここはまた詳細に記していきます。

【専修大学法学部時代】
在学中はバンド漬けの生活であった。数多くの違ったジャンルのバンドを結成し、ライブハウス出演を重ねた。ボーカルだった「野次馬ブラザーズ」ではコンテストに参加したりしたが、うるさかった会場で客に「静かにしろバカヤロウ!」など生来のホットテンパーさを炸裂し、審査員だったダディ竹千代氏に「客を怒鳴るとは何事だ」とか罵倒され、Aの評価をB下に落とされた。 (後に審査評定表を配布されて判明)ちなみにウチのギターの佐野はそのコンテストでは最優秀ギタリスト賞だかを頂いたのである。あの時しおらしくしてれば、人生どうなってたかわからないよな。バンドコンテスト参加はあとにも先にもこれっきりである。

地元にふらり帰省した際、ひょんなことで通い始めたジャズ喫茶が伝説の「東風」だった。そこでマスターの吉野勝之と出会い、吉野勝之バンドのメンバーはじめ多くの友人たちと知り合うようになった。ジャンルはジャズであり、このジャンルではズブの素人だったが、自由に音楽を創造していく楽しみを教えて頂いた。ジャズとは一切の制約が無い音楽なのだ。だって譜面だってないんだもん。決まりごとがある、なんていう向きもあるが、よくよく縛られるのが好きな人のタワゴトなんである。…と、ぼくは思っている。ジャズといっても非常に幅広い。吉野勝之バンドは4ビートからアシッドジャズ、ファンクまで手広くやっていた。だってメンバーも若いしね。ジャンル的に内省的な音楽と捉えられがちだが、ぜんぜん違う。ま、そんな感じでした。

【東京暮らし】
キーボードでスタジオワークに参加したり、代官山にあったプロダクションに在籍するようにもなったが、、また自分の育てるミュージシャンを抱えるトレーナー同士の陰険な争いや自分専属の女性トレーナーの音楽への考え方の違和感から我慢できずに辞めてしまった。
そんなこんなで、音楽で食べていく事も考えたりもすることもあったが、機は熟さず、落ち着いた生活を送る事となった。
日の目を見ない曲を作り続け、今では300を超える数を数えるまでになりました。

【師匠 五十棲淑朗との出会い】
そんな平和な日々も、師匠である寺内流聰師範代 五十棲淑朗との出会いによって無惨に打ち砕かれてしまった(笑)。
何の気なしにスポット的にライブのお手伝いという事で参加した、知る人ぞ知るバンド「テリーズ」だったが、大渦に巻き込まれるかの如く、メンバーとなり、気がつくとヘタクソだのボケだのとメチャクチャ。そこでぼくは本当のプロバンドの厳しさを体感したのでありました。

【まだ見ぬ地平を】
そんな日々を続けているなかでの東日本大震災。
多くの方が傷つき、お亡くなりになりました。
ぼくの友や仕事でお世話になった方も帰らぬ人になった方が何人も居ります。
チャリティコンサートなんてのも企画し、やりました。
そして現実的に、音楽はほぼ役に立ちませんでした。
その無力感。
そしてたくさんの夢を抱いて、今も本当は生きて居たはずの仲間たち。
またあの地で夢に向かって歩んでいた、見知りではないけれど必死に生きていた魂たち。
自分の人生を振り返った時、またもう一度、やり残しの決着をつけなくてはいけない、そう思いました。
メンバーを集め、オリジナルを演奏し始めました。

この先、何があろうと歩みは止めるまい。
自分の未見の、そしてあまたの魂が求めていたまだ見ぬ地平を見に行きたい。
そう思ったのです。
そして今、ここにいます。



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エフスタイル代表としての顔

【 経験職種 】
・電算経験は企業情報処理部門在籍を含め通算30年強
・プログラマ>SE>プロジェクトリーダー>セールスエンジニアのキャリアパス経
・損害保険および生命保険の募集人
・テクニカルライター
・WEB制作、WEBシステム構築
・イラストレーター
・CIの提案・企業支援
・文化屋楽器店の番頭さん
・販売促進課部長

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